スポーツとはなにかを紐解いたところで、第2回はいよいよ「スポーツマンシップ」についてお伺いします。
―スポーツマンとは、どんな人のことを指すのでしょうか。
中村 『広辞苑』でスポーツマンを調べると、「運動競技の選手。またスポーツの得意な人。」と書かれています。しかしながら、スポーツマンシップがスポーツマンのもつ心構えや資質と考えると、スポーツマンが単なる「運動能力の高い人」や「スポーツに取り組んでいる人」を指している訳ではないのではないかと感じますよね。
ちなみに、sportsmanという言葉を『POCKET OXFORT DICTIONARY』(1969版)でひくと、「good fellow(よき仲間・いい奴)」と訳されています。スポーツには一切触れられておらず、「他人から信頼される人」であるというわけです。
したがって、われわれ日本スポーツマンシップ協会では、運動能力の高さやスポーツをするかどうかを問うのではなく、「尊重・勇気・覚悟」を備え他者から信頼される人たちのことを「スポーツマン」であると定義しています。
「尊重」は、チームメイトや対戦相手、そして審判やルールなど、自分でコントロールできないものを大切にするということ。「勇気」は、リスクや自分の中の弱い気持ちに立ち向かい、自ら挑戦や鍛錬を続けることです。そして「覚悟」は、勝利を目指して全力でスポーツを愉しむ気持ち、困難や苦しみ、スポーツをとりまく複雑さを受け入れ乗り越える心構えのことです。
― 尊重・勇気・覚悟。確かにどれもスポーツには大切なキーワードですね。
中村 日本におけるスポーツマンシップの研究・普及活動の第一人者だった故・広瀬一郎さんは、過去さまざまな形でスポーツマンシップが定義されてきた中で、「尊重」だけを中心的なキーワードとした定義を採用していました。しかし、改めてスポーツマンシップを考えた時に、利他的な精神だけでは少し物足りないような気がしていたのも事実でした。そこで、ギリシア哲学やオリンピズムなども紐解きつつ、改めて広瀬さんにも提言し議論を重ねながら、その定義に「勇気」と「覚悟」を追加して整理し直すべきだという現状の結論に至ったのです。
もともと広瀬さんという人はカリスマ的な存在感のある「勇気と覚悟は百万倍」というタイプの方で、おそらく「尊重」が苦手だったんですよ。でも、私たち日本人の多くはどちらかというと「尊重」は得意だけど、「勇気・覚悟」の方が苦手だったりします。それはいわば、ブレーキを踏むことばかりに注力していて、アクセルを決して踏まない精神状態といえるかもしれません。
― 確かに…失敗を怖がったり、周囲の目を気にする人が多いような…。
中村 尊重・勇気・覚悟。3つの気持ちのバランスが大切なのです。だからこそ、ついブレーキばかり重視しがちな人たちのためには「アクセルの大切さ」も説いた方がいいなと。
繰り返しになりますが、「尊重」は自分以外のものをどう受け止めるかであり、「勇気」は自分との向き合い方、そして自分と他者をどう融合させるかが「覚悟」。この3つを相互に影響させて、スポーツマンシップの精神をバランスよく育てるべきであるというわけです。
― それぞれのキーワードについて、まずは「尊重」から詳しく聞かせてください。
中村 そもそもスポーツは試合の相手がいなければ成立しません。しかも実力が拮抗している状態の両者が、フルメンバーでお互い本気でぶつかり合い、接戦のうえに勝った時の愉しさは、子どもにも理解できるはずです。
ですから、その大切な対戦相手を「敵」と呼ぶこと自体が疑問ですよね。私たちがここ数年苦しめられた新型コロナウィルスのように「いなくなればいい存在」こそが敵。対戦する相手がいなくなってしまったのであれば、僕たちはもはや試合ができなくなってしまいます。
自分たちの試合が愉しめるかどうかは、相手の力量やモチベーションなどにもかなり依存しています。それを考えると相手を敵視し、軽んじることはナンセンスです。
もちろん試合や練習をサポートしてくれる審判やスタッフ、保護者や仲間を大切にすることは言うまでもありません。
― では「勇気」について。
中村 「勇気」は自分自身と向き合うことです。スポーツをしていると、自分で判断して決断を下す場面が幾度となく訪れます。その時に周囲の目を気にしたり、失敗を恐れているとプレーが消極的になり、「失敗しないために、挑戦しない」なんてことも起こります。
子どもたちと向き合っていて、「これがわかる人、手を挙げて」と尋ねると、低学年であればあるほど「はい!はい!」って我先にと手が挙がるのに、小中高校と成長するにつれて挙がらなくなる。これって成長の過程で、ミスをして叱られたり、恥をかいたりバカにされたり、またそういう仲間の姿を見たりすることによって、どこかでアクセルを失ってしまったのだろうと思うんです。チャレンジして失敗することが「成長」には欠かせないのに、そのチャレンジの種さえ蒔かないのは本当にもったいない。
― 保護者や指導者がチャレンジさせたいと思っても、尻込みする子も多いですね。
中村 例えば教室などで「質問がある人」と聞かれて、質問をしたとするでしょう。その際の経験を一番強烈に覚えているのは、他でもない質問をした本人です。その教室にいた人は誰が質問したかなんてすぐ忘れてしまうけれど、自分の中にはずーっと勇気を出したことが残る。これがチャレンジした人、行動をした人への一番の見返りです。
一度その経験をすることで、「自分は勇気を出した」「自分の手でつかみとった」という自信になり、自己研鑽のエンジンになって、一歩抜きん出た人へと成長していきます。
クーベルタンの言う「卓越性」は、勇気を出してチャレンジした人だけが手に入れられるものです。エジソンの言う「天才は99%の努力と1%のひらめき」においても、99回失敗した後にもう1回アクセルを踏み込める勇気のある人こそが成長や成功を手に入れることができるんですよ。
― 子どもの頃は誰もが持っている「勇気」を大事に育てないといけませんね。
中村 子ども、プレーヤー、立場が弱い人たちが勇気を発揮することで、チームを救うこともあると思うんです。誰か一人が勇気を出して「これはおかしい」「違う」と声を発することで、問題が封印されずに明るみに出ることもあるはずです。
「どうせ自分一人が声を挙げても…」と思わずに、小さな行動の積み重ねで大きなうねりが生まれるかもしれない。最初は耳を貸してもらえなくても、結果的にチームや組織を変えられるかもしれません。綺麗事に聞こえるかもしれませんが、最初から「どうせ変わらないよ」と諦める人にはなってほしくない。それには同時に受け止める側の大人、コーチ、立場が強い人たちの側にも、耳の痛いことを受け入れる「勇気」が必要になります。
― 「覚悟」については、いかがでしょう。
中村 スポーツが真剣な遊びであり、必ず白黒がつくものである以上、勝つために困難な練習にも取り組み、途中で投げ出さずにやり切る覚悟が必要です。僕がスポーツマンシップを語る時に「楽しむ」ではなく、あえて「心(忄)」の入る「愉しむ」を使うのも、スポーツは「楽」な道を選ぶことではなく、心を前向きに運びながら厳しさや苦しさも引き受けることだと思っているからです。
勝つために練習しているのに、試合をしたら必ず50%の割合で負けるか、あるいは、2つの引き分けになります。陸上競技や競泳のような種目に目を向ければ、参加するプレーヤーのうち1人しか勝利を手に入れることはできません。スポーツで勝つことはもちろん大切なのですが、半分以上が勝利を掴むことができないのであれば、「勝ち」以上に大事な「価値」を見つけなければもったいないですよね。スポーツをしていると、複雑で矛盾するようなことを受け入れなければいけません。それにはやはり相応の「覚悟」が必要だということです。
― 「スポーツマン」という言葉に、かなり精神的な意味合いが含まれるということですね。
中村 前述のとおり、『POCKET OXFORT DICTIONARY』でsportsmanは「good fellow」と訳されています。
スポーツ本来の意味を理解して、スポーツマンシップを実践できる人。負けてもふて腐れず、勝っても謙虚でいられる人。自分自身を律することができる人。まさに大人が子どもたちに「こういう人になってほしい」と思うような「カッコいい」人物像が浮かびます。
― いよいよスポーツマンシップの核心に迫ってきた気がしますが…改めて「スポーツマンシップとはなにか」を教えていただけますか。
中村 スポーツマンシップとは、スポーツマンになるための心構えであり、「Good Game」を創ろうとする気持ちのことです。「目に見えないものを大切にすること」とも言えるでしょう。
僕はスポーツマンシップこそがスポーツの本質的価値だと思っています。「スポーツって一体なんだろう」と哲学的な疑問を持ち、それを考えて実践できる人がスポーツマンであり、その「シップ(規範・心構え・資質)」ですから、より高いレベルのエリートこそが身につけられるものです。
感情のまま原始的に生きていくなら、スポーツマンシップなんていりません。より高度に、自分を高める概念として「スポーツマンシップ」を理解できるかどうかが鍵です。
ここまでお話ししてきて、もうおわかりだと思いますが、スポーツマンシップはスポーツをする人にだけ必要なものではなく、人生を生きていくうえで必要な心構えでもあるんです。
― シンプルなようで難しいですね。子どもにも伝えられるでしょうか。
中村 「またこの人たちと練習や試合がしたい」と思ってもらえるような振る舞いや態度も、スポーツマンシップの一つのゴールかもしれません。気持ちよくスポーツと向き合い、手を抜かず、真剣に戦っていれば、子ども同士であっても「また戦いたいな」「また一緒に何かしたい」と思うでしょう。適当に楽をすることがつまらなく見えて、本気で取り組む気持ちよさを愉しく感じる。そうした気持ちをともに突き詰めていける仲間や対戦相手と出会えることが、スポーツの醍醐味ですから。
でもね、子どもが小さい頃はキャッキャ言いながら、スポーツをただ「楽しむ」ことも大切です。その後にのめり込んで極めていく時に、心を前向きにして「愉しむ」ことができればいいと思います。
―スポーツマンシップとフェアプレーの精神はどう違うのでしょうか。
中村 フェアプレーはゲームにおける「尊重」の部分を指します。対戦相手や審判、ルールなど自分以外のものを尊重し正々堂々と戦おうとする「行動規範」のことです。ちなみにフェアとは「道徳的に正しく、公明正大なさま」とされ、勝つためにズルをしたり、ルール違反をするのはフェアプレー精神から逸脱しています。
チームメイトや対戦相手、ルール、審判を尊重しながら、全力も尽くすというフェアプレー精神は、「スポーツマンシップ」の中核を担う重要な要素であるといえますが、スポーツマンシップのあくまで一部であり、イコールではないのです。
― 近年は「スポーツマン」ではなく「スポーツパーソン」を使おうという意見も耳にします。
中村 僕たちは、女性アスリートのことを話す時も、信頼される人物という文脈で使うのであれば「スポーツマン」という言葉を使うべきだと考えています。
ジェンダー的な観点を含めて、「スポーツ+男性」だけではないから「スポーツパーソン」と呼ぼうというのは、「スポーツをする人」としての「スポーツ+マン」と捉える思考に基づいています。たしかに単にスポーツをする人という意味で使うならば、スポーツパーソンのほうが適切かもしれません。
しかしながら、「スポーツマンシップ」を考えるときの「スポーツマン」は「good fellow」という信頼に足る人物に対する称号として使われてきた歴史的な背景を重視しないと本質を見失いかねないのです。
一方で、そうした特別な意味をもたない「ビジネスマン」やそのあり方について考えるときには、「ビジネスパーソン(business person)」「ビジネスパーソンシップ(businesspersonship)」という言葉を使っています。
スポーツマンという言葉は、「信頼に値する人物」への称号であり、概念です。「ヒューマン(human)」を「ヒューパーソン」とはいわないのと同様に、「スポーツマン」という一語としての成り立ちや歴史、意味や価値を大切にすべきだと考えています。「スポーツマン」「スポーツマンシップ」という言葉をそれぞれ大事に扱うことで、あらためてスポーツの本質的価値を考えるきっかけにしていただけるとうれしいです。
次回は「スポーツマンシップ」の持つ2つの側面について掘り下げてお伺いします。