【インタビュー第1弾】「スポーツって何?」子どもに教えたい本質とは

2024.03.12

わが子に「スポーツマンらしく育ってほしい」「スポーツマンシップを身につけさせたい」と考える人は多い一方、「スポーツマンシップとはなにか」を子どもに言葉で説明できる人は少ないかもしれません。
日本スポーツマンシップ協会を立ち上げ、立教大学スポーツウエルネス学部で教鞭をとりながらスポーツマンシップの普及に携わる中村聡宏さんに、「スポーツ」とは何か。そしてスポーツの本質や歴史、その魅力についてお聞きしました。

― 基本的な質問ですが…「スポーツ」とは一体なんでしょうか。

中村 「スポーツはなにか」なんて、おそらく誰も教わったことはないでしょう。体を動かす「運動」には違いないけれど、とくに意味を考えなくてもスポーツはできてしまうため、その定義は改めて考える人も少ないと思います。
そもそも「スポーツ」の語源はラテン語で運び去る・運搬を意味する「deportare(デポルターレ)」だといわれ、それが「気晴らし・遊び」へと変化して、今のスポーツの原型が形づくられたのは19世紀のイギリスだといわれています。
この「遊び」という要素は、スポーツにとって非常に大切です。なぜならスポーツの本質は「運動+ゲーム」で、愉しむことや遊びの要素が切り離せないからです。

― スポーツには「遊び」の意味が含まれるんですね。

中村 スポーツ自体が、そもそも遊びから変化したもので、しかもただの遊びじゃない。真剣に勝負をして、そこで勝つことでより愉しくなる遊びです。
相手も同じ程度の実力があって、お互いルールを守り、全力を尽くしてプレーするからこそ最高の愉しみがある。つまりスポーツとは、「運動を通して、競争を愉しむ真剣な遊び」のことであり、誰もが見ていて清々しい「Good Game」を目指して行う身体活動のことをいいます。
僕がスポーツマンシップを語る時に「楽しむ」ではなく、あえて「心(忄)」の入る「愉しむ」を使うのも、スポーツは「楽」な道を選ぶことではなく、厳しさや苦しさも心を前向きにして引き受けることだと思っているからです。

― 子どもにスポーツを習わせたり教えたりしていると、「遊び」ということを忘れてしまいます。

中村  そうなんです。教える側がこれを常に頭の隅に置くことが非常に重要です。
ここでスポーツの歴史についてお話すると、もともと貴族の遊びだったものが、19世紀後半のイギリスのパブリックスクールで教育ソフトとして使われ始めました。上流階級の子どもたちを育てる、重要な人材を育成するうえでスポーツが有効だと判断されたということです。

当時イギリスは世界のあらゆる地域に植民地を置いていて、その国々で活躍する優秀なマネジメント人材を育てなければいけませんでした。祖国への忠誠心があり、屈強な体と精神力を持ち、現地の人たちともコミュニケーションを取りながら植民地を統治する若き優れたリーダーの育成です。彼らを育てるのに有効だと採用されたのが「スポーツ」でした。

― スポーツの教育的な側面ですね。

中村  スポーツは、知識があるだけではダメで、必ず行動に移し、実践しないことにはプレーが成り立ちません。この「実践を伴う」という部分が一番の特徴です。インプットした知識を自分なりに考え、それを必ずアウトプットする、究極のアクティブラーニングともいえます。
またスポーツは一人ではできないですよね。チームメイトとコミュニケーションを取り、時には対戦相手とも協働しながらゲームを進める。しかも、ルールを熟知し、それを守らなければならない。これって、社会の縮図だと思いませんか。

― 本当ですね。

中村  仲間や仕事相手とやりとりして、いい関係をつくりながらビジネスを進めていく。商売敵だからといって排除したり、人の道に外れたことをすれば、二度と一緒に仕事はできません。
つまり子どもや若者を社会に送り出す準備として、スポーツは非常にいい教育ソフトなわけです。ただ今はそのすばらしい構造を、うまく活かしきれていないような気がします。試合に勝つこと、大きな大会に出ること、そしてそこでよい成績をおさめることにばかりに注目されがちで、本来の「愉しむこと」や「スポーツでいかに成長できるか」という部分がおざなりになっているのが現状です。

― 中村さんご自身もスポーツをされていましたか?

中村  僕は小学校高学年から中学生までラグビーをやっていたのですが、一番鍛えられたのは「演技力」だったんですよ。ランニングをしていても、先生の前だけめちゃくちゃ辛そうにして、姿が見えなくなったら手を抜いて走るっていう…まぁよくある話なんですけど。
でもね、これは非常にもったいない話で、誰が一番損したかというと、僕自身なんですよね。覚悟を決めて一生懸命走れば、もしかしたら一流の選手になれたかもしれない。少なくとも、当時の僕よりはいい選手にはなれたはずなのに、自分でその道を絶ってしまった。
もちろんこれには、走る練習を愉しめないような画一的な練習方法が主流だったという当時のトレーニング方法などに問題もあったのかもしれません。

― スポーツ教育に携わる立場としては身が引き締まる思いです。

中村  近代オリンピックの父といわれるクーベルタンは、イギリスのパブリックスクールを視察した際に若者がスポーツに取り組む姿と、パリ万国博覧会からヒントを得て、人間教育と世界平和を成し遂げたいと思い、スポーツの世界大会であるオリンピックを1896年に復活させました。
そして現代に至るまでにスポーツは大衆化し、エンターテイメントとして大きく成長しました。そして選手がスポーツをするだけでなく、人が対価を払って観戦に行ったりテレビを観たりして愉しむようになり、結果的にメダルの色や数ばかりに多くの注目が集まるようになっています。

― マスコミも取り上げて、世間の注目も集めていますね。

中村  スポーツのマーケットが大きくなることは大変喜ばしいことですが、勝利や結果ばかりにその価値が委ねられてしまうのは問題かもしれません。その価値観が、小・中・高校の部活動や子どもたちのスポーツの習いごとにまで影響しています。「No.1を決めた方が子どものモチベーションが上がる」と全国大会などが設置されると、それを目指して勝利至上主義の考え方にシフトし、加速してしまうというケースです。勝利をめざすことはスポーツの大前提ですが、勝利がすべて、勝利にしか価値がないという勝利「至上」主義の考えに陥ってしまうと、若年層のプレーヤーがスポーツを愉しめなくなるケースも出てきます。
実は成果を出したいのは大人の方で、子どもはそれに巻き込まれていることもあるでしょう。本来「教育にふさわしい」と導入されたスポーツですから、とくに若い世代の子どもたちにとってのスポーツの成果は「子どもたちの成長」であるべきなのに、「勝つことこそが子どもの成長だ」とすり替えられやすいんです。

― スポーツと非認知能力の関係はどう思われますか。

中村  文部科学省が掲げる重視すべき3つの柱、①知識・技能、②思考力・判断力・表現力等、③主体的に学習に取り組む態度のうち、非認知能力は②と③の部分ですよね。
この表現力や意欲、主体性、人間性、協働力などは、一人では成し遂げられないもので、誰かとの関係性において発揮できる力、個と個を結ぶ力のことです。知識だけでは成立せず、必ず実践や行動しなければいけないスポーツこそ、非認知能力を身につけやすい手段だと思います。
非認知能力は幼児期の「遊び」が一番身につくと言われていますよね。スポーツはプレーすると言いますが、これは「遊び(プレー)」にも通じます。命令されて「遊ぶ」子どもはいませんし、人からやらされた時点で「遊び」ではなくなります。
自分から進んで取り組む、チャレンジする、主体的に向き合う、辛いこともあるけど受け入れるなど、スポーツの基本が「遊び」の中に詰まっている。だからこそ「真剣な遊び」であるスポーツは、非認知能力と結びつきやすいのではないでしょうか。

次回は、「スポーツマンシップ」とは何かについてお伺いします。

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