城彰二さんの原点。スポーツ(サッカー)を通してつながる仲間との絆

2023.10.05

日本ジュニアユース、ユース、そして日本代表と各世代で日本代表に選ばれ続けてきた元Jリーガー・城彰二さん。サッカーの名門・鹿児島実業高校で活躍後はジェフユナイテッド市原へ入団し、1995〜2001年までは日本代表選手としてアトランタオリンピックやフランスW杯にも出場しました。
その城さんがサッカーを始めたきっかけやプロサッカー選手として活躍した時のお話、そして二児の父としての顔も持つ城さんに親子でのスポーツの関わり方などをお伺いしました。

第一回は、城さんのサッカーとの出会いからサッカー強豪校でプレーした高校時代までのお話をお届けします。

― サッカーを始められたのはいつからですか?
  僕はもともと父親の影響で、幼稚園の頃から野球を夢中でやっていたんです。でも小学校5年生の時、休み時間にサッカーで遊んでいたら、サッカーチームの監督をしている先生がサッカーに誘ってくださって…
「このユニフォームあげるからサッカーチームに入らないか」と。そのユニフォームがメチャメチャかっこよくてね(笑)。

父親に「明日からサッカーやる」って言ったら、それは反対されまして。野球をものすごく応援してくれていたので、仕方ないんですが…。

最初は親に内緒で野球の練習をしてからサッカーに参加するという、二足のわらじみたいなことをしていましたが、サッカーの方が楽しくなってしまいました。

― サッカーの何が楽しかったんでしょうか。
  一つのボールを仲間とつないでゴールをするでしょう。みんなで協力しながらボールを運んで、最後はゴールを決めるのがなんとも言えず気持ちよかった。

父親に食い下がって、最終的には「サッカーを本気でやるなら、途中でやめるな」と応援してもらって転向しました。とはいえ5年生から始めたのでルールもわからないし、本当に下手でしたね。仕方がないので、ボール拾いやボール磨きばっかりしていました。

そこで僕がやったのは、徹底的に上手な子を観察して、分析して、真似をすること。Jリーグもまだなくて、プロのサッカー選手のプレーは滅多に見られないような時代でしたから、とにかく自分で見て考えるしか方法がない。

でもね、これが楽しかった。自分で気づいたことを工夫して実行して、ほんの少しでも上手くなると、教えられて上達するのとは段違いに嬉しかったです。今スポーツに取り組んでいる子たちにも、ぜひやってみてほしいですね。

― 自分で掴み取っていく楽しさですね。
  それと同時進行で、監督から「蹴る・止める・走る」の基礎技術を嫌というほど叩き込まれました。この基本練習がね、つまらないから辛いんです。少しでも楽しめるようにペットボトルに当てたりしながら、自分でゲーム要素を加えたメニューを考えたりしました。とにかく「上手くなりたい」「試合に出たい」、その一心でしたね。

でも中学・高校とサッカーを続けるうちに、この時の基礎練習がものすごく大切で、のちのち大きな差になることがわかりました。6年生になる頃には体も大きくなって、小学校最後の北海道大会では決勝点を決めて優勝できたんです。

― 中学では学校のサッカー部に所属されたんですか?
  レベルの高い中学でやりたいと親に頼んで、名古屋のサッカー強豪の私立中学を探してもらい入学しました。今だから話せますが、学校にも友だちにも内緒で一人暮らしをしながら通学したんです。

生活費は送ってもらうものの、練習が終わってからご飯を作って、洗濯して、次の日はお弁当を買って学校に行くという生活を全部一人でやりました。もやしを大量に買って肉と炒めておかずにしたり、たんぱく質を摂らなきゃと安い鶏肉を買いだめしたりね。中学生でしたから…親のありがたさを実感しました。

でも中学生くらいになれば、自分で考えていろいろ行動できるということです。友だちにも相談できませんから、スーパーの店員さんに商品表示の見方を教えてもらったり、もやしは2〜3日ですぐ腐っちゃうとか(笑)。この時の失敗から学んだことは今も立派に生きています。

結局学校の知るところとなり、当時鹿児島に引っ越していた家族の元へ送り返されてしまうんですけどね。

― 鹿児島では順風満帆なサッカー生活を?
 それがまた、そうでもない。地元中学のサッカー部に入学したんですが、初心者ばかりでスパイクを持っているのが3〜4人というような部活で。名古屋のサッカー強豪校との違いに愕然としました。

父親に「辞めたい」と愚痴を言ったら、これまた「逃げるんじゃない」と怒られましてね。それで部員たちに「もっと真剣にやれよ」みたいなキツイことを言ってしまったんです。そうしたら「俺たちは別にプロになりたい訳じゃないし、城が強いところに行ってやればいいじゃん」と言われてね…これが凄くショックで。

もともと「仲間と連携して一つのボールをゴールする」のがサッカーの楽しさだと思って始めたのに、自分は下手な仲間を切り捨てようとしたんですよね。

― それからどうしたんですか?
  サッカーは、野球のようにかっちり決まったポジションがあるというよりも、全員で補い合いながらゲームを進めるスポーツです。だからいろんなレベルの、いろんな考え方の子たちを調和させて目標達成するのがサッカーの醍醐味で、全員でやるスポーツなんだと改めて痛感したんです。

そこで僕が小学生の頃に叩き込まれた基礎基本を全員でやりました。練習前に少し早く集合したり、ウォーミングアップ前にやってみたり…自分が5年生の時に下手だったことや悔しかったことを思い出しながらね。「基本が身に付くと、いろんなことができるようになる」と全員で実感できました。

― なんだかドラマみたいな話です。
 そのサッカー部にもう一人、すごく上手な横山博敏くんっていう、のちにJリーガーになる子がいたんです。その子と励まし合いながら、「この部活を強くすれば、きっとサッカー強豪の高校の目に留まる。そうすればプロになれるかもしれない」という下心もあって(笑)。

でも「自分はこのチームでプレーするんだ」という心が決まって、全員で一緒に強くなろうと伝えたら、他のチームメイトも前向きに変化しましたね。

結局僕も横山くんも鹿児島実業から声がかかり、入学できました。横山くんがいなければチームを強くするどころか、部活を続けることも難しかった。だからスポーツをするうえで、ライバルや仲間は本当に大事な存在だと思います。

― 念願叶って入学した鹿児島実業高校サッカー部は練習が厳しくて有名ですよね。
 県外からも強い選手が集まるような学校でしたから、高校以降は「競争の世界」に突入です。

練習試合の日は、真夏の炎天下で1日3試合とかやるんですけど。監督からの「今日は○点取ってこい」と指令が出て取れないと、3試合の隙間は休まずにダッシュ100本走ったりする。誰かのタイムが遅いとカウントされないので、速い奴が遅い奴を挟んで走ったり…もう地獄でした。

でも自分の限界が分かったのはよかったですよ。「もう無理だ」と思っても、やらされると意外とできたりして(笑)。きつかったですが、「自分はここまでならできる」という限界まで攻められるようになったので、よい経験でした。

― 「練習中は水を飲むな」という時代でしょうか。
 そうそう。今の鹿児島実業高校の練習ではそのような指導はされてないですが、当時はトイレの洗面台も蛇口が外されてて、全然飲めなかった。

だから雨が降ると嬉しくて、水たまりの泥水をすすりました。鹿児島は火山灰が降るから「炭で濾過されて、意外と綺麗なんじゃないか」なんて仲間と話してましたね。

― プロを意識したのはいつ頃からですか?
 一番最初は野球をやめてサッカーに転向したいと父親に伝えて、「サッカーのプロになる」と言った時です。

鹿児島実業に入学する時にはかなり現実味を帯びていましたが、まだJリーグが発足していなかったので、「プロになる=海外に行く」ということで、そのために英会話も習いました。僕以外は全員女の子で、恥ずかしかった記憶があります。

でもスキルって、地道に積んでいかないと上がっていかないんですよ。だから基礎練習も英会話も、嫌でも恥ずかしくてもやるしかない。もし将来の目標があるなら、目標に向けての具体的なステップを自分なりに準備した方がいいと思います。

― 高校2年生の時にJリーグができて、サッカー部の雰囲気も変わりましたか?
 日本にサッカーのプロリーグができるなんて、夢にも思っていませんでしたからセンセーショナルでしたね。「プロになるなら海外に行くのかなぁ」という漠然とした目標から、よりプロへの道が具体的で身近なものになり嬉しかったです。

絶対にプロになりたいという気持ちが生まれ、練習への真剣度も変わりました。それまでも実業団チームはありましたが、やっぱりプロリーグ発足は大きな出来事でした。

― 城さんがスポーツをやってきてよかったと思うことはありますか?
 仲間がたくさんできたことかな。しかも同じ目標に向かって切磋琢磨して、苦労を共に分かち合った仲間なので、絆の強さが普通の友だちとは全然違いますね。特にサッカーはチームスポーツなので、助け合ったり、補い合ったりすることが多いので、仲間の大切さは実感しやすいのかもしれません。

「一生の友だちを作れたこと」が、スポーツをやってきてよかったことです。

次回はプロのJリーガーとして、また日本代表として活躍されていた頃のお話を伺います。

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